Witch With Wit-*

30箱に1つの恋

 恋心というのは、いつまで保存がきくものだろうか。
 かれこれ十年近くになると思う。缶詰でもなければ、カビが生えている期間だ。一度は冷凍したつもりだったが、ここのところ、隅っこのあたりからゆるゆる溶け始めている気がしてならない。
 焼けぼっくいに火がついた、というわけではない。一度も燃えたことのない関係だからだ。ずっと俺からの一方通行だった、あの頃は。

 バタム、と冷凍庫の扉を閉じたあの女は、今日も小さな赤い箱を手にしている。
「飽きないなあ」
 給湯室から戻ってきて、斜め前の席の椅子を引いた彼女に突っ込む。
「そんなに喰うなら、ファミリーパックにした方がいいんじゃねえの」
 返事代わりに、無言で肩をすくめられた。
……知ってる。それじゃ、駄目なんだよな。

 こいつが中学時代に俺のことを好きだったらしい、と聞いたのは、高三の夏だった。家の近くのコンビニで会った小中での同級生の女子は、確かこいつと仲がよかったはずだ。
「嘘だろ、そりゃあの頃から時々話はしてたけど……」
 それを告げた女は、それはもうめっちゃニヤニヤしてこちらを見ている。俺は自分がどんな顔をしているのか、皆目見当がつかず、右手の拳で口元を隠すようにした。
「ほんとほんと。それで、高校一緒でしょ? あーこれは夏休みくらいにはカップル成立報告来るかなあ、って思ってたらあんた、全然違う女と花火の日腕組んでんじゃん。びっくりしたわあ」
 見られてたのか。……いや、やましいことはないんだけど。しかも別れてかなり経ってんだけど。
「でもそれ二年も前の話、ってかそもそも、好きって話ももっと前だろ。なんで今更そんな話を」
「だって今、めっちゃ嬉しそうに『あいつと同じクラスになった』とか言うから」
 やっぱりそれ、顔に出てたのか。確かに高三になって、あいつと話すのは中学の時以上に楽しかった。球技大会ではあいつのバレーと俺のソフトボールを互いに応援し合ったし、マンガの貸し借りもしていたり、それから親父さんが特撮が好きらしくて、実はそっち方面の話題もできると知った。
──確かにその頃、俺はあいつが好きだった。
「いや、中学の話だろ。今は違うわけじゃん。それに、ガキの惚れた腫れたとか、半分勘違いみたいなもんだろ」
 自分の高一の時の経験を踏まえて、そう言ってみたのだが。目の前の女には、救いようのない馬鹿を見たような顔をされた。

 その後、あいつと話すときは、必要以上にドキドキした。中身だけじゃなく、見た目も好みだな、なんて思ったりもした。……そして、落胆というものは、もともとそんなに期待していなくてもできることを知った。
 あいつの態度には、自分の気持ちと同じような色は露ほども見えなかった──これでも彼女がいたこともあるので、分かるつもりだ──。コンビニで会った女子は、押せば脈あり、と言いたかったのかもしれないが、そういう努力を俺は放棄した。何しろ、目の前に受験という一大イベントが迫っていたし。
 俺はあらゆる気持ちと期待を秘めて隠したまま、卒業式を迎えた。進学先は、別になった。
 同じ都会の大学だったはずなので、この街のどこかにあいつもいるのだ、と心に浮かんだことは何度かあった。が、かといって会いに行けるような伝手はないように思われた。実際、なかったのは勇気とかこだわりとかそういうものだったのかもしれないが。持ち主に放置された恋心は、ジップロックの中で塩漬けになっていた。

 大学を卒業した年の同窓会、久々に再会した佐倉の左手に目がとまる。──薬指に、光る石。
「結婚したのか?」
 近くの席に陣取り、さりげなさを装って聞く。
「まだ。でも、そのつもり」
 もやしサラダを咀嚼しながらの返事に、そうなのか、と胸の底が冷えた。もう、こいつは帰ってこないのだ。どこかの男と、ここじゃないどこかの土地に収まる。
──恋は終わっていなかったと、その時、気がついた。大学でそれなりに周りのやつらとの恋愛沙汰も経験して、すっかり過去の笑い話にしたはずだったのに。
 近くに座っていた女子と一緒におめでとうを言って、自然な流れで何度も乾杯を重ねた。あいつのいない、三次会まで。翌朝、二日酔いの頭で、実家の洗面台の、出しっ放しにした水の流れを眺めながら、後生大事にとっておいたジップロックを冷凍庫にぶち込むことを決めた。

──それで今度こそ全部終わった、はずだったんだ。

 とっくに縁が切れたはずだったあいつは、今日も、六個入りのアイスをプラスチックの串に差して口に運ぶ。残念そうな肩の線に、もう少し演技をした方がいいぞと苦笑した。

 斜め前の女は知らない。こいつが帰ってこないと知って、地元が急に味気なくなったのを。……それまで、自分だって帰る気なんかなかったくせに。
 都会の仕事で拾ったきっかけを、即座にこの場所に結びつけたのは、多分あの時の左手の指輪だ。あの手に抱かれたガキが、たまにおじいちゃんちに遊びに来たときでも、喜んでくれればいいと思った。
 なのにその手に、指輪はもうない。
 二年は長い。十代の頃の親しみを復活させ、新しく信頼を得るにはじゅうぶんだ。その間に俺は、こいつを襲った理不尽の断片を聞き集めるに至った。
 こいつが一番大変なときに支えなかった男に腹が立って、なんで俺にしなかったんだ、なんてモヤモヤして。そもそも、俺になんてしようがなかったんだ。
 あの頃俺は、何の言葉も、もしかしたら素振りもやらなかった。
 小さな落胆とちっぽけなプライドを踏み越えて、何か言えていたら、あいつの運命は変わっていただろうか。……それとも、クソみたいな男の面が、俺にすげ替わるだけだったのだろうか。

「おっ、おやつタイムだった?」
「っ!」
 大量の荷物を持って戻ってきた社長のおどけた声に、女の肩が跳ね上がる。あーあ、驚きすぎだろ。
「いえ、もう仕事に戻るところです! 社長、お持ちします」
 公私混同はしない佐倉は、ぽいと小箱をくず入れに放り込むと、書類の詰まった紙袋を受け取ろうとする。
「ああ、悪いね。んじゃこれ、丸井さんの机によろしく。こっちは、僕が処理するやつだから」
「はい」

 俺は知っている。大げさな驚きは、のんびり甘味を楽しんでいた姿を咎められたと思ったから、などではない。
 高校の頃の俺が、あいつに探した、探しても見つからなかったあの色。

 なあ。くずかごに埋もれた小箱に願を掛ける。
 頼むから、あいつの口を開かせてやってくれ。
 親しみと信頼がそれ以上のものにゆっくりと化けるのを、つぶさに見てきた。だけど、傷ついて帰ってきた場所で、羽を休めているあいつを口説けるような自信や思い切りは、俺には今もやはりない。
 後生だから、あいつが一言俺を求めてくれたら。
 溶けかけてぐずぐずになった恋心を開封して、俺のできる限りでどろどろに甘やかしてやれるのに。