Ⅱ 魔女と王宮 – 逢魔が時の花嫁
皆に別れを告げて村を後にしたのは日が傾き掛けた頃だった。城まではそう遠くはないが、晩餐の時刻までには衣服を改めておかなければならない。
次に母や祖父と顔を合わせるのは、自分の婚礼の席でのことになるだろう。
揺れる馬車の窓から、見納めになる、慣れ親しんだ景色を眺めやって、静かに別れを告げていたローラの耳に、向かいに侍女と並んで腰掛けるマルクスの呟きが届いた。
「──魔女、とお言いでしたか」
……おや?
「初耳だった?」
「ええ」
てっきり、これまでにどこかで聞き知っているものだとばかり思っていたのだが。
「そんなたいした話じゃないわ、ただの、おとぎ話よ。おばあ様のおばあ様だったかしら、なんだかそのくらいの。あの村を栄えさせて、うちの一族が長と敬われるきっかけを作った人がいるって」
まかり間違っても、国を挙げて祭られる姫君のような立派な話などではない。
「本当に魔法が使えたとか、そんな話じゃないと思うわ。けど、他の家にはない薬草の知識とかレシピが伝えられてるっていうだけで──」
それだって、マルクスのような正規かつ一流の教育を受けた者には敵わない程度のものだ。
「ああ、そうね、でも。
母様もそのせいか若い頃はそれなりに美人だったみたいだし? 国王に見染められたのは魔女の血筋のなせるわざだなんて、村じゃ話のネタにはなってたけど」
だからてっきり耳にしているものと思い込んでいたのだ。ローラはくすりと笑う。マルクスはそれに付き合うでもなく、神妙な顔をしていた。
何よのりが悪いわね、と片眉を上げると、彼はまたつぶやく。
「……そうでしたか。
あるいはそれが、一種の──」
何かを言いかけて、濁すように語尾はすぼまる。
「何よ?」
「……いえ」
今度は声に出して問うと、彼ははっきりと苦笑した。ローラはむっとする。
「何よ、本当に。失礼な人ね」
「何でもありませんよ」
どう考えても何でもない様子ではなかったが、ふっと姿勢を変えて膝を組み、その上に両手を重ねたマルクスは、もう話を完全に変えてしまうらしい態度である。
「……あなたもあんなご婦人になるんでしょうかね、何十年かしたら」
あごをややもたげた、からかいの響き。ローラは肩をすくめた。
「その予定、だったんだけどね。
豪奢なドレスと繊細なティアラで飾り立てて、ああいうのになれたりする、もんかしら?」
ローラの人生設計は、本人には予想もつかない方向に転がってしまっていた。しかしマルクスはこともなげに言ってのける。
「それもお似合いですよ。斬新で」
肩をすくめるでもなく、目をそらすでもなく、さらりと述べるその様子ときたら。
むくれようとしたがうまくいかず、マルクスと視線が合うと、そのまま笑い出してしまった。
──と。
窓越しに見えたものにローラは、次の瞬間、姫君らしくもなく身を乗り出すと、御者に向かって声を張り上げていた。
「止めて!」
馬車道の傍ら、枝を張り出したクルミの木の根元にたたずむ小さな人影にローラは声を掛けた。
「やっぱり、あなたね」
ぼろの山とも見紛うようなその人影は振り返る。祭りの日に遭った、あの老人だ。
「またお主か。何かと縁があるようじゃな」
「そうね。この辺にあなたのおうち、……があるわけでもなさそうね」
ローラはきょろきょろと辺りを見回して肩をすくめる。馬車道の両脇は森と言ってもいいくらいの雑木林だ。しばらく馬車を飛ばさないと、人家などないはずだった。ぎゃあぎゃあと上空でカラスが鳴いている。
その場を少し通り過ぎたところで停止した馬車からは、ローラに続いて降りたマルクスと、バスケットを携えた侍女がこちらに歩いてきていた。
「若い娘がこのような、人の家も畑もなきところで馬車を止めるなど、いったいどういう了見じゃ? 追いはぎに遭うとも知れぬぞ」
老人の声は完全に面白がっている響きである。
「それはこっちの台詞だわ。あなたが見えなきゃ止めなかったもの。か弱いおじいちゃんがこんなところで独りぽっちで、どうしたの? 歩いてきたわけ?」
勢い言いつのる形になったが、ローラの中にもなんだか、この状況を楽しむような気分が生まれていた。
老人はにやりと笑って、節くれ立った右手の人差し指を掲げ、頭上を指す。
「見えるかの?」
「何が……えっと、うろ? 木の上の?」
クルミの木の幹、ローラの身長をちょうど倍にしたぐらいのところに、手のひらをめいっぱい広げたのと同じぐらいの大きさのうろが口を開けていた。
「儂の“路銀”の一部があそこに入り込んでしもうてな」
「何よそれもう……」
りすか何かが巣を作っていそうな大きさである。
「烏を呼び寄せて、うまい事落として貰えぬかと目論んだのじゃが、そうそう上手くはいかんでな」
「いくわけないでしょそんなの。カラスがどうやってあなたの路銀を回収できるのよ。──でもまあ、取って来られるならカラスじゃなくてもいいわけよね」
言うなりローラは控えめにひだやリボンが付けられた綿のドレスをまくり上げた。
「なっ──!!」
驚いたのはすぐそばまで来ていたマルクスである。
「何を考えているんですかあなたは!」
「え? わからない?」
手を止めずに頭を引っこ抜いてドレスを丸める。同じく近寄ってきていた侍女がくすくすと笑いながらそれを受け取った。
「ええ、ええ、極めて遺憾なことにあなたがやろうとしていることは十分よくわかっていますが、どうしてわざわざそんな格好になる必要があるんですか」
「あらまあ、さすがのあたしだってドレスを着込んだまま挑戦するのは無謀よ? それにそんな格好とはご挨拶ね。村だったらこれでも、お祭りの一張羅より立派だわ」
ドレスの下から現れたローラの格好は綿の膝上ドロワーズと袖無しの下着だ。
マルクスは顔を背けつつ譲らない。
「金額ではなく、認識の問題です」
「なら見たり考えたりしなけりゃいいじゃない?」
「ひゃっひゃ、これはこれは」
老人が愉快そうに声を上げて笑った。マルクスは憮然としている。
革の編み上げ靴はそのままで、ごつごつした木肌に取り付く。これなら苦労せずに登れそうだ。余裕綽々で頭のすぐ上の一番大きな枝に手を掛けた。
「ベル、そちらのご老人に母様のパイをひとかけ差し上げて」
「よろしいんですか?」
腹心の侍女は既にバスケットから敷物を広げて彼らの座る場所をしつらえている。
「ええ、あたしの分を回せば、みんなの分は残ってるでしょ」
母親から言付かった、城のきょうだいたちへのおみやげである。
「あなた、さっきもいただいたでしょうに、自分だけ城に帰ってまで」
そっぽを向いたままのマルクスの呆れた声がする。
「役得って奴よ、それにたった今放棄したんだからいいじゃない」
そう答えながらローラはもう先ほど手を掛けた枝によじ登っている。付け根に乗せた足で体重を支えて伸び上がれば、楽にうろの中をのぞき込むことができた。
傾いた陽光の照らす中、不自然なほどに輝いている小さな水晶のようなかけらがある。
「おじいちゃーん、これのことかしら? お金じゃないんだけど?」
「ああ、相違ない」
つまみ上げて地上に見せると、パイを頬張っていた老人はうなずく。それを確かめてローラは立っている木の枝を使い、危なげなく地面に降り立った。
「一度ならず、二度までも手助けされるとはな。
次に会うたら礼をせねばなるまいの」
「いい心がけだわ。まあ、持たないものからは取らないっていうのがあたしの主義ではあるんだけど」
老人にその石のかけらを渡すと、木くずをはたき落とし、ベルから受け取ったドレスを着込みながらローラはつぶやいた。受け取ったものを、懐から出したこの間の巾着袋──そうか、やはりこういうものが入っていたのだ──に放り込みながら老人は笑う。
「身なりがこのようにみすぼらしくては、致し方あるまいがな。なれど、姫君にできる礼を持たぬと決めつけることもあるまい?」
「そうね、失礼したわ」
……自分の身分を明かした覚えはなかったのだが、まあ、この格好と馬車なら推測が立つこともあるのだろう。
ローラの身支度が終わって、やっとこちらに向き直ったマルクスがつくづくと溜息をつく。
「平気で木登りなんか始めるような姫君ですけどね。
私にお命じになろうとは思わなかったんですか」
確かにマルクスは、何を頼んだってローラが思った以上の能力を発揮して、いつも飛び抜けた成果を見せてくれる。
でも、まあ、……そうだなあ。
自分は田舎育ちで慣れていて、マルクスは一応貴族だ。木登りなんかしたことないかもしれないとは思ったのは確かだが、それを聞こうともせずさっさとドレスを脱ぎ捨てたのは。
「──あなたなら、何でもだいたいなんとかしてくれるでしょう?
だから、あたしが一応やるだけやってから頼むことにしてるの」
「尻ぬぐいって言いませんか、それ」
そのマルクスの深くげんなりしきった様子がおかしく、ローラはきゃらきゃらと笑った。