Witch With Wit-*

Ⅰ 姫君と教育係 – 逢魔が時の花嫁

 カルフォーレでは、国王ただ一人が複数の妃を持つことを認められている。
 しかしローラの母は、他国から迎えられた王族でもなければ、国内の有力な貴族の娘でもなかった。
 今は宰相となった、マルクスの父。長年その一族が治めている地の、何の変哲もないただの農婦だ。狩りの途中に立ち寄った若き日の王を、村おさである父──ローラの祖父だ──共々歓待して、そうして赤ん坊を身ごもった。
 そのため毎年少しの養育費を頂戴する身分にはなったが、王宮では既に二人の王妃がそれぞれ王子と王女をもうけていたことなどもあり、新たな妃として迎えられることなくそのまま村にとどまることになった。
 かくしてローラは、大自然の中ですくすくと、母と祖父母に育てられた。野山を駆け回るほか、学者肌の祖父が蓄えていた大量の蔵書──先祖代々から相続したのに加え、祖父自身の趣味で増え続けてもいるものだ──にも囲まれた生活。ローラは文字が読めるようになってからは、それらに半ば埋もれるように読みふけって多くの時間を過ごした。
──だが、遠い国の歴史や神話はあくまでも日常生活には関わりのない物語で、ローラ自身の暮らしは家族同様、麦を刈り羊を追うというきわめて地味でありふれた農民のものだった。書物に書かれた知識を教訓にするよりも、母や祖母から教えられた生活の知恵の方が使いでもある。……たとえば、狼は森に食料の多いこの時期なら滅多に人里を襲うことはなく、むしろ大量の人の気配やたいまつの光、金属の音やにおいを嫌うこと。ましてや軍馬の群をかき分けて姫君の馬車を襲ったりなどまずありえないこと、などだ。
 ローラにとって見える世界とはそういったものがすべてで、そうやって年頃になれば、村で一番出来のいい男の子を婿に取り、そのまま母のような農婦として年老いていくものだとばかり思っていた。

……それが、今では大違いだ。
 隣国グレンツの王子との間に慌ただしく婚約話が調えられたかと思うと、この有様である。
「姉上、いる?」
 晩餐会から数日経った昼下がり。大きく窓を開け放して、外の風を入れながら繕い物にいそしんでいるローラの部屋を軽くノックして、弟の一人が訪れた。
「ウィル、いらっしゃい」
 ローラにはそれぞれ兄と姉が一人ずつ、弟と妹が二人ずついる。ウィル──ウィリアム王子は年の近い方の弟で、二年前に突然城に上がった彼女からすると、きょうだいたちの中で真っ先になんとなく気の合う間柄となった存在だ。
「また侍女もつけないで、ローラ姉上ったら。見つかったら怒られるよ?」
 横着して長いすに座ったまま迎えると、弟はいたずらっぽく目をくりくりさせて突っ込んでくる。きょうだいたちは、初めの頃にローラ自身が望んだように、村での呼び方をできるだけ引き継いでくれていた。
「マルクスみたいなこと言わないでちょうだい。隣の部屋にはいるわよ、男の子は一人で出歩けていいわね」
「ごめんごめん。
『それ』がマルクスの罰?」
 軽く謝って傍らの椅子に腰掛けたウィルは、ぼやくローラの手元をのぞき込んだ。彼女は寝間着の取れてしまったボタンをつけ直している真っ最中だった。
「まさか。姫君のすることなんかじゃないってしかめっ面されるわよ」
 さらりと流してからふと、ささいな言葉が引っかかった。
「──『罰』?」
「うん。私も見たかったなあ、ローラ姉上のびんた」
……あああ……。
 面白がっている弟の様子だが、ローラはまずいものでも口に突っ込まれたような気分になった。
 針を布に刺してからテーブルの上の離れたところに押しやり、おそるおそる聞いてみる。
「さぞ、噂になってる?」
「んー、まあ、ふつうかな?」
 返事はなんともあっさりしている。
「う……」
 それはいったいどういう意味での普通なのかしら……。
「でも、気にすることないよ。ジェルベ将軍、あれでさばけたお人だしさ」
 あくまでものんきに、弟はがっくり落としたローラの肩を叩いて励ましてくれる。
「……本当に? 部下の人とかに、面子をつぶしたとか恨まれてないかしら」
 ローラは念を押しながら立ち上がって、二人分のお茶を用意し始める。……気持ちを切り替えよう。ウィルはくすりと笑う。
「そんなに気にするくらいなら、やらなきゃいいのに」
 まったくだ。
「自分でもそう思うわ……。姉様のように、うまくかわせるようにならないものかしら」
「あんまり想像できないけどね、ローズ姉上みたいなローラ姉上っていうのも」
 ローズ──ロザリンドとは、晩餐会にも出席していた姉のことだ。ローラとは違い、おっとりとした物腰は母の第二王妃ゆずりだった。
 王太子である兄を産んだ第一王妃は他国の王女だが、二番目の王妃はもともと家臣の娘だったこともあって、王宮内の機微──つまり、力関係や裏事情には詳しいことこの上ない。ロザリンドともそれは共有しているようで、マルクスの家以外に後ろ盾を持たないローラには、母娘そろって心強い味方となってくれていた。
 ちなみに、目の前の弟も第二王妃を母としているのだが、こちらはなんともおおらかというか細かいことを気にしないたちで、もしかしたら姉よりもローラに気質が似ているような気もする。
「……もしくはリシアみたいに、ちょっかい出すのが後ろめたくなるような雰囲気出してみる、とか」
 ウィルのすぐ下の、花とか真珠とかにしょっちゅうたとえられている、どんな荒くれでも守ってやりたくなるようなたおやかな妹の名前を出すと、弟はこんなときばかり賢くも、肩をすくめてコメントを避けた。
 と、ノックの音が再び響き渡る。
「開いてるわよ、どうぞ」
 ティーセットを運んで卓に戻る途中のローラに代わり、ウィルがさっと立って扉を開けた。
 侍女たちの取り次ぎがあるはずが、王子に招き入れられたことに目をぱちくりさせて入ってきたのはマルクスだ。
 彼はまず、自ら紅茶をサーブする王女に眉をひそめ、さらには卓の上に置かれている針仕事の道具を見つけてもの言いたげな様子でローラを見やった。
「……言いつけられた暗記と書き取りは済ませたわよ。
 いいじゃない、暇なんだし、それにみんな出払っちゃってるのよ。自分のことは自分でしたって構わないでしょ? この寝間着お気に入りなんですもの、肌触りが」
 とがめられたように感じて、つい言い訳を重ねてしまう。
 本当なら、ボタンが取れた姫君の寝間着などは、修繕したりせずに家来に下げ渡すものなのだ。しかし、ローラはもうすぐここからいなくなる身である。家来に与えて新しいものを下ろすのはもったいない、と思ってしまったのだ。
「ねえ、マルクスもさ、何か用があって来たんでしょ?」
 ウィルが取りなすように言って、元の椅子に座り直し、紅茶の入ったカップを受け取って一口飲み下した。
 ああ、そうでしたね、と気を取り直した教育係は、ちらちらと続きの間をうかがって、そちらに控えている侍女の気配もいつもより少ないことを確かめたようだった。
「──もしかして、あなたが暇を取らせたんですか?」
「だって今日はお祭りですもの」
 腰掛けてふたたび縫い物を引き寄せたローラは、顎で窓の外をさし、糸の始末に掛かる。
 今は庭園や城郭で直接見ることはできないが、その向こうには、多くの民で活気づいた城下町が広がっている。
 今日この日は、町の立派な礼拝堂を中心に、年に一度のお祭りが行われているはずだ。
 マルクスはくすりと笑う。
「そのお祭りの日に、あなたがしおらしくしているなんてね」
「悪かったわね。この間の騒動のことは、一応反省してるのよ」
 ローラは決まり悪げに、少し口を尖らせてぶすぶすと寝間着の生地に針を刺す。……弟にまでにやにやされている。
「あんまり姉上をいじめないでやってよ、マルクス」
 ふむ、そうですね、と教育係はうなずいた。
「──でも、あなたにとっても最後の例大祭でしょう。父がぜひ楽しんでいらしては、と申しておりましたよ」
「えーっ。姉上、お祭りに行けるの? いいなあ」
 本人より弟が先に身を乗り出したが、ローラにとってはそんなに単純に喜べる話でもない。
「遠慮するわ。あたし一人の支度のためにどんだけ手間が掛かると思ってんの。
 侍女達はほとんど出払っちゃったのよ」
「まあ、あなたのお申し出に皆大喜びで飛びついたであろうことは、想像に難くないですが」
「ええそりゃあね。それに護衛も、」
 言いかけた彼女をマルクスは片手を掲げて制した。
「『姫君』の支度であれば、そうでしょうが」
「…………え? まさか、」

 ローラは意気揚々と、城門から街へと降りる石畳の道を歩いていた。供はマルクス一人を伴うのみである。
 服はぴったりした袖なしの上着に真っ白なブラウス、そしてくるぶしまでの赤いスカートに布靴だ。亜麻色の髪は編んで頭の後ろに巻き付けた。明るい草色のバンダナを被り、その下から紫の瞳を覗かせている。
 傍らのマルクスも、下級役人が着るようなベストに長ズボンを合わせ、先日の礼装とは比べるべくもない地味な恰好をしているが、さほど違和感はない。こうしていると、とても権勢を誇る大臣家の次男坊には見えないものだ。この不思議な振れ幅の広さはいったいどこから来るのだろうか、こちらはこの、町娘風の装いが一番、──そう、ドレスなんかよりもよほどなじんでいるというのに。
 まあいいわ、と気を取り直す。せっかくのお祭りだ、楽しまなければ損というものだ。
 秋の日差しの降り注ぐ往来の先、礼拝堂の尖塔に向かい木靴を鳴らして石畳を進む。すると、つかず離れず従ってくるマルクスのつぶやきが耳に入った。
「水を得た魚とはこのことですね」
 むかっ。そりゃ元が村娘なんだから、しょうがないじゃない。
「悪かったわね」
 下からにらみつけて、挑みかかるように応じたのに、しれっと返される。
「いいえ、お似合いだと申し上げてますよ」
 笑みさえ浮かべている。
……軽口はともかく、ローラは屋台で飲み物を買おうとするマルクスを止めた。
「街に入る前の屋台なんてやめなさい、ほとんどぼったくりよ。
 こっちにあたしのおすすめのお店あるのよ、味も値段も、おまけに量まで申し分ないところ」
「なるほど」
 売り子に苦笑いされたが、見たことのない顔なので気にしない。おおかた、旅人の財布が緩むのを当て込んだよそ者だろう。
 ローラが先に立ち、人々に混じって大通りをしばらく歩く。初夏の鮮やかな陽光が、街路樹や街灯に飾り付けられた色とりどりの布に降り注いでいる。行き交う人々の笑顔も晴れやかだ。
 目指すは、ローラが昔からなじみにしていた酒場兼食堂だ。──まさか、この国を出て行く日を目の前にした最後の例大祭に、マルクスを伴って寄ることになるとは。
 広場に面して、その店はある。お祭りの日だけあって、軒先に特別にしつらえたカウンターで、壮年の亭主が飲み物をこしらえている。こちらに気がつくと、レモンをしぼる手を休めることなくひげ面に笑顔を浮かべた。
「はあい」
 ローラは片手を振って、店の前のカウンター近くに並べられたテーブル席の一つに腰掛けた。マルクスも軽く会釈してそれに倣う。
「お城にあがったそうじゃないか」
「そうなのよ、前より近所になったのにあんまり顔見せられてなくてごめんなさい」
 亭主は苦笑する。ローラが国王の庶子だという話は、つきあいの長い相手には隠してはいなかった。
「そっちのお兄さんもお城の人かい?」
 視線で示したのはマルクスのほうである。水を向けられた彼がとっさになんと答えたものか躊躇ったのを見て取り、代わりに引き取る。
「そうよ、わりかしお世話になってるの。日頃お仕事一辺倒だから今日は気晴らしに連れ回してるってわけ。
 おじさん、レモネードあたし達にも頂戴。ジョッキで二つね」
「あいよ、ちょっと待ってな。食いもんは?」
「おばさんの魚のフライある? ええ、それと、あとは適当に見繕って」
 マルクスはローラの隣の椅子に腰を落ち着けた。心なしか憮然としている。
「何よ、言いたいことあるなら言ったらどう」
「……いえ、特には」
「どこが特にはって顔よ。わりかしお世話どころか、ずいぶん甚だしくお世話してる、とか主張してもいいのよ」
「それを言わせていただけるならばむしろ、お世話されている自覚があったのかと驚いていたところですが」
「ちょっとひどくない!?」
 やりあっていると、軽食を運んできたおかみさんにくすくすと笑われた。そちらにも不義理を詫びて、近況を聞くなどする。
「みんな変わんないよ、いやさ、金物屋の若夫婦のところに赤ん坊ができたりはしてるけど。でもあんたほどにはねえ」
「それは言えてるわ……」
 しばらくぶりの魚のフライは旨かった。レモネードとの取り合わせもぴったりだ。ローラとおかみさんとの会話を邪魔しないようにか言葉少ななマルクスが、晩餐会で見せるような格式張ったマナーの数々など放り出して、おかみさんの料理をめまぐるしい速度で平らげていくのに気がついてにんまりした。
「こっちの蒸し野菜もおあがりなさいよ、ディップがまろやかなのにさっぱりしてて癖になるのよ」
「……いただきます」
 フライに野菜にオムレツにチーズたっぷりのジャガイモのグラタン。たらふく食べてお代をと立ち上がったら、亭主が首を横に振る。
「いいよ、ローラ。久しぶりに顔見て嬉しかったからな」
「おじさん、でも、あたしだってちゃんとお小遣い貰ってるのに……」
 同行者に払わせるつもりではない、と伝えようとしたが、亭主とおかみさんは微笑んで受け取らない。
「聞いてるよ、もう来年にはどっかの王妃様なんだろ? だからこれは餞別、それとご祝儀みたいなもんさ」

 神妙な面持ちになったローラに、マルクスは何も言わずついてきてくれた。
 広場から少し足を進めると、今日の例大祭のメイン会場となる大きな礼拝堂が見えてきた。人混みに囲まれて、木で組まれた何基かの山車が出番を待っている。
 その一つには遠目にも鮮やかな赤い髪をなびかせた姫君の像が据えられている。王家の始祖の一人、すなわち、ローラのご先祖様だ。

──この姫君が、きみととても深く関わっている、と言ったら?

 初めてそのことを教えてくれたのは、他ならぬ、隣に立つ彼だ。
 そのときからずっと、昔人々を救ったという彼女の血が、時を超えてこの身体にも流れていることは、父の顔を見たことのない、しがない地主の孫娘でしかなかったローラにとっては誇りであった。
……けれど。
 山車を見上げて歩みを止めてしまったローラの横で、黙っていたマルクスがつぶやく。
「大丈夫、あなたならできますよ、なんでも」
 その声はふとすると祭りの喧噪に紛れてしまうくらいの小さなもので。
「──うん」
 そうかもしれない。あなたもこうしてついてきてくれるなら。
 言葉にはせず、ローラはあたりを見回した。
「今年はお願いの箱、どこで配ってるのかしら?」
 背伸びしてあたりを見回したが、身長の高いマルクスが見つける方が早かった。
「あちらですね。行きますか」
 ええ、とうなずいてマルクスが指した方へ先に立って歩く。ローラが言ったのは、例大祭で用意されている庶民のための祈りの道具のことである。
 神話の中で、赤い髪の姫君は、たびたび民たちを苦しめていた荒ぶる神をなだめ、ついには国と民の守護者となることを約束させたという。
 その契約の証として、聖なる石でできた箱に、神の荒ぶる力を二度と害をなさぬよう収め、自らの祈りと願いで封じたと伝えられている。
 それにあやかって、この日のために木と色鮮やかな紙でできた箱を街の礼拝堂がいくつも用意し、民は幾ばくかの供物や金銭と引き替えにそれを手に入れては願いを込め、川に流すのだ。
 伝統的には家や一族の安全が祈られていたようだが、最近では商売の繁盛や立身出世、恋人達が永遠の愛の成就を祈るなど、もはやなんでもありである。
 ローラが両手にちょうど収まるくらいのそれを、いくつも抱えて配布所を離れたら、マルクスに思い切り呆れた顔をされた。
「多すぎですよ」
「仕方ないじゃない。母様、お爺様、兄様に姉様に弟たち妹たち、は、まあまとめて一つでいいとして、お城のみんな、一応マルクスも、あと一応の一応で父上とか大臣のぶんもお願いしなきゃなんないわねって思って、だって、最後なんですもの」
 念のため言っておくが全部のお代をきちんと小遣いから出している。対照的にこちらは一つだけを片手で持っているマルクスが、はあ、といつものように苦笑混じりの溜息をついた。
「ご自分のは?」
「……まあ、そこまでは欲張らなくてもいいかしら、って」
 では。マルクスは自分の箱を軽く振って言った。
「僭越ながら、あなたの分は私が祈らせていただくとしますか」
「もったいないでしょ?!」
 思いがけない申し出に、ローラはすっとんきょうな声を上げてしまった。
「そっちこそ、自分の分はどうするのよ?」
「あなたに願っていただけるみたいですから」
「……っ」
 それ以上言葉が継げなくなったローラを見下ろすマルクスの目は完全に面白がっている。
 これ知ってる、侍女達がどや顔って言うやつだ。
 釈然としないままではあったのだが、それ以上何かを言おうとするのも気恥ずかしくなって、ローラはマルクスに背を向けすたすたと水場へ向かった。

 日が傾いて赤く染まった水面に箱が浮かんで流されていく。
 流す時間は特に決められているわけではなく、日が高いうちから辺りがとっぷりと暮れて灯火に照らされる頃まで行事は続くが、ローラは見えるものすべてが真っ赤に染まるこの短い時間帯が好きだった。
 自分の周りの空気がざわめいて、何かに呼ばれているような、不思議な力がわいてくるような気がするのだ。
──ほどなく空は高いところから一足先に、紫、群青へと色を変えていく。土手の上に立ってずっとそれを眺めていたローラが、傍らのマルクスを振り返って、帰りましょうか、名残惜しいけど、と言いかけた時。
「どこ見てんだジジイ!」
 がらがら声が上がったのはマルクスの背後、すぐそこである。
 祭りで酒をひっかけたであろう赤ら顔の、頭も行いも悪そうな若い男二人組が、こんな日だというのにぼろきれと見紛いそうな粗末な衣服を着込んだ老人を怒鳴りつけていた。
 老人は声も出せない様子で、ぺこぺこと頭を下げている。ローラは眉をひそめた。
「いやね、こんなおめでたい日に」
 もちろん老人の身なりについて言ったのではない。お祭り気分に無粋なまねで水を差す二人組のほうだ。自分たちより明らかに腕力も体力も衰えているであろう老人相手に気を大きくしたようで、片方がその胸ぐらをつかみ上げると凄み掛かる。
「わかってんだろなてめえ? こういうときは、よ。出すモン出してくれなきゃなあ!」
「出すモンだよ出すモン、ジィさん、わかってんだろ?」
 にやにやともう片方が老人が手にしていたすり切れかけた布袋を奪い取る。振るとちゃりちゃり音がした。
「しけてんなあ。まあ飲み代くらいにはなるか?」
「いんや」
 老人をつかみ上げた方は口をゆがめて笑うと、空いている方の腕を振りかぶった。
「それっぽっちじゃ引っ込みが付かねえんだよなあ! ジィさん、ちょっと憂さ晴らしになってくれ……っかはっ!?」
 拳を老人の顔にめり込ませようとした瞬間、男は横合いからの衝撃に肺の息を吐き出し、大きく身を崩してたたらを踏んだ。解放された老人が土手の上にへたり込んで咳き込む。
 男達が老人の方ばかりに気を取られている間に、静かに数歩の距離を詰めたローラが、体を沈めて肘打ちを入れたのだ。
「なんだ、んのアマ!」
「邪魔しやがってっ……!」
 一瞬あっけに取られていた、袋を奪い取った男がローラにつかみかかろうとする。体勢を崩した男が胸をかきむしってそれに続く。
「マルクス、あとよろしく」
「……まったく、あなたときたら。やれやれ、私は非力な文官なんですけどね」
 教育係は大げさなため息をつく。立ち位置を譲ったローラには、彼がその口の端をゆるく吊り上げたのが見えた。
「知ってるわよ」
 腕まくりをする必要もない。
──騒ぎに気づいた人々が集まってくる頃には、男はどちらも片付けられていた。

「大丈夫?」
「ああ。世話を掛けたな」
 ローラが汲んできた水を飲み干して一息つくと、老人は彼女を見上げ、笑みを浮かべた。さっきまで乱暴されていた老人とは思えぬその不敵さをなんとなく愉快に思いながら、彼女は尋ねる。
「さっきの袋、中身は大丈夫?」
 マルクスが拾い上げていたそれを渡すと、老人は確かめもせずに懐にしまい込む。
「うむ、かたじけない」
「ふうん……見なくていいの、大事なものなんじゃでしょう? さっきの音、お金じゃなかったわよね」
 男たちは硬貨の音と勘違いしていたようだったが、ローラの耳はそれを、何か水晶のようなものが触れ合ったときのような音ととらえていた。
「ほう」
 老人は顎をつまんで、すがめるようにローラを見た。
「確かに、儂にとって失うたら難儀するものではある、このように、人々が羽目を外しておる中、襤褸を纏ってうろつかねばならぬほどにはな」
「なら気をつけなさいよ……。っていうか、おうちの方心配してるでしょう。早いとこ帰った方がいいんじゃないの、日も落ちたし」
 こんな常識人ぶった説教をしていると、マルクスにどの口が言うのだとか後でいじられそうな気がするが。
 老人はふっ、と笑った。
「路銀がのうなってな」
「──ああ、そういうこと」
 ローラは自分の片耳に手をやって、そこを飾っていた金の耳飾りを外す。
「これ一つで足りるかしら、あなたのおうちまで」
 握らされた老人は、面食らったようだった。
「……いかなる風の吹き回しじゃ?」
「いかなるもたこなるもないわよ、油売ってないで早くお帰りなさい」
 そしてマルクスに向かって言い訳をする。
「……あたしの化粧代から出したやつだからね。宝物庫がどうとか伝来がどうとか、謂われなんかもないわよ」
「別に、そういった心配はしておりませんが」
「あっそう」
 老人はまだ耳飾りを握らされた手をそのままに、片眉を上げてローラをうかがうように凝視していたが。
「それじゃあね。あたしたちももう、帰るから」
 照れくささもあり、ローラはきびすを返して手を振った。

 後になって何度もローラは、老人と出会ったこの場面を思い返すことになった。
──朝焼けと夕焼けの頃、昼と夜のあわいには、人の世界と人ならぬものの世界が混じるという。