Ⅰ 姫君と教育係 – 逢魔が時の花嫁
大陸の中央からやや西にずれたところに位置する、自然の恵み豊かな王国、カルフォーレ。その王宮の中でも最も格式が高く、装飾も華麗な広間には今、花々で飾り立てられた長いテーブルが並べられ、王国でも名だたる身分の貴紳淑女が顔を揃えていた。
お抱えの楽団が奏でる曲も、ローレンティアには良さがわからないものだったが、きっとこの場にふさわしく格調の高いものなのだろう。
贅を尽くされた料理は、既に人々の腹に収まっていた。最後に出されたコーヒーのカップに指を掛けながら、ローレンティアは内心ほっと胸をなで下ろしていた。
──なんとか、やり過ごせそうだわ。
高く結い上げた亜麻色の髪も、キャンドルの光が表面で反射する深い緑色のドレスも、申し分ない仕上がりのはずだった。
なんせ今宵の晩餐会は、彼女の卒業試験のようなものなのだ。
生まれ育った村を離れ、何度か謁見したことがある程度だった父親──この国の王のことだ──の元で「姫君修行」に励むようになって、もう少しで二年。
村娘同然だった彼女が、れっきとした王女様として隣国グレンツの王子の元に嫁ぐ日は、すぐそこに迫っていた。
──どうよ、あたしもたいしたもんでしょう。
初めて座らされた上座の目立つ席から、ローレンティアは、座の中ほどに控える自分の教育係の見慣れた茶色い癖っ毛を目の端にとらえてにっこりした。
生粋の貴族らしい目鼻立ちに、優美なあごまでのライン。澄ました、という表現が何よりも似合うその男は、──こちらの存在など素知らぬ気に、隣のご婦人に軽く顔を向け、何か言葉を交わし合っては控えめに笑っている。いかにも育ちの良い坊ちゃんでござい、と言った風に。
──何よ、少しくらい賞賛のまなざしとかを返してくれたっていいじゃないの。
小さくむっとして、ローレンティアは一座の中に自分にほほえみを返してくれる人物を探してさりげなく視線を動かした。とはいえ、最も上座におわす父は、豪奢な衣装をまとい、ぶどう酒のグラスを傾けてはお気に入りの大臣たちと笑い合っている。……はなから期待はしていない、のだが。
ええと、他には……いた。
教育係のはす向かい、すみれ色のドレスと長手袋もさまになる、腹違いの姉だ。自分と同じ亜麻色の髪に、この国の貴族に多い緑の瞳、それが──
こちらに向かってしきりに目配せを送っている。なんだろう?
「────め、ひめ、……姫?」
横合いから繰り返されている、『姫』という単語が自分のことを指していると気づくのに数瞬掛かった。
「──え、あ」
……こほん。小さく咳払いをして向き直る。そこに控えているのは、これまであまりなじみのなかった顔。カルフォーレでも辺境の武官を束ねているという老将軍だ。
「なんでしょう、将軍」
白い眉とひげが目立つ風貌である。
……名前、なんだったっけ。
「ふぉっふぉっふぉ、心ここにあらずといったところですかな、姫。まだまだ耳が遠くおなりになるような年でもござらんでしょう、それがしなどとは違って」
「いえ、ほほほほ」
中途半端に顔を見知っているご老人の、年齢をネタにした自虐的な冗談ほど、突っ込みづらいものもそうはない。
「少々、物思いにふけっておりましたの……、ごめんあそばせ」
上品に口元を指先で隠して小首をかしげる。将軍は気を悪くしたようすもなく、にこにことうなずいている。
「そうでしょうとも、姫はまもなく隣国へ嫁がれる身。物思いの種も尽きませなんだでしょうなあ」
「ええ、ほほほ」
というか、名前なんだっけ。
助けを求めて視線は再び教育係の方へとさまよいかけた。──いや。思い直して踏みとどまる。
老人は笑顔のまま続ける。
「何かと心細うござりましょうな。それがしもお供つかまつりますが、隣国への道のりはなにせ一筋縄ではいかぬ難所ぞろい。文字通り山も谷も控えておりますどころか、地元の民の話では、恐ろしい人食い狼が出没するとかいう界隈までござりまするぞ。
牛でもたやすく一呑みにするとのこと、かようにか細い姫君など、隠れておっても馬車ごとぺろり……ひとたまりもございませぬなあ」
わざとらしく声音を作って語られる話に、ローレンティアも調子を合わせた。……つもりだった。
「もしそうなったらお父様も大変ですわね。姫君どころか、それを乗せる馬車まで新調し直さねばなりませんもの」
愛想笑いも添えてみたのだが、……相手は乗ってくれなかった。
「ほう」
片眉を跳ね上げた、その表情の上流階級的な意味がつかめない。
何か失敗しただろうか。
ローレンティアは話の接ぎ穂を探す。
「どんな旅になるのかしら。……グレンツはこちらと気候が違うと申しますもの、ドレスもそれに合わせて仕立てませんとね」
ふむ、と老人は白いあごひげに手をやって思案げにした。
「おなごの着るものことはこの老体ではわかりませなんだがな」
……ごまかせただろうか。
「ご心配なさらずとも、そういったことはお付きの者が万事よしなにお取りはからいいたしますぞ。しかしあちら風のドレスと申しますと、そうですな、うむ」
将軍はにやあと笑った。嫌な予感。
「もっとこのあたりの丸みが重要になってきますなあ。姫、ほれ、もっと食べて肉を付けんといかんですぞ」
あごひげを揉んだ手が伸ばされて、そのまま高級な生地の上から太ももを撫でられた。
ぞわ。
──ばちん!
「なにしやがんのよスケベジジイ! 辺境暮らしで女に飢えてんだかなんだか知んないけど、そういうおふざけはそういう店で金払ってやんな!」
気がつくと、椅子を蹴倒して立ち上がり、腕を払いのけたついでに相手の頬を張っていた。
口を突いて出た啖呵に広間じゅうの視線が集まり、はっとする。
父や姉の席が、怖くて確かめられない。
ローレンティアは引きつった笑みをなんとか顔に貼り付けて、白々しく淑女のお辞儀をした。
「……あら、ごめんあそばせ。わたくし気分がすぐれませんので、失礼いたしますわね」
広間を後にしようと、裾をさばいて身をひるがえす。
教育係の後ろを通り過ぎるとき、ようやく思い当たった。……ジェルベ将軍、だ。
今更、とこみ上げてくる場違いでやけっぱちな笑いをかみ殺しながら、広間の扉を抜ける。
かつかつと音を立てて石畳を歩いていたが、やがて、それも面倒になって、かかとの高い靴は脱いでしまい、それを両手に持つと走り出した。
「──姫様」
やって来た。お小言の時間だ。
ローレンティアは王女に与えられた自室に戻ると、気心の知れた侍女に手伝ってもらい、夜会用のドレスからもう少しゆったりとした服に着替えて長いすの上で一息ついたところだった。
呼びかけたのは、もちろん例の教育係である。
ローレンティアは目の前に置かれた小卓の上の、侍女が作ってくれたホットミルクとバター付きのパンに没頭しているふりをしてそれを無視した。
「姫様。もう耄碌なさったのですか。あれだけ綺麗な一撃を入れておいてそれはないでしょう」
「やだ、そんなに綺麗に入った?」
思わず振り返って聞き返すと、きわめて沈痛そうな真顔があった。
「ええそれはもう」
教育係は、夜会のための礼装のままだった。仕立てのよい光沢のある生地は、織られたときから彼の身にまとわれるために存在していますとでも言いたげなほどぴったりと着こなされていて、いつまで経っても借り物気分が抜けない自分の装いとは大違いだ。
彼は装飾の金鎖を揺らしながら小卓を回り込み、気の利く侍女がいつの間にか用意していたスツールに腰を下ろす。
「ご高齢といえど武勲を重ねられた武官が形無しでしたよ」
「あちゃー……」
また伝説を作ってしまった。
「目の当たりにしたのは私とせいぜい数人といったところでしょうがね。
私はあなたが将軍に何やかやと話しかけられておいでなのをお見かけしてから、何か起こさないか気が気でなかったので」
「見張ってたってわけ?」
「ええ、その甲斐もありませんでしたが」
あからさまに無視されたのは、気のせいではないと思ったのだが。見ていたなら、こちらが何かやらかす前に助け船を出してくれてもよかったではないか。
「姫様」
「…………」
「まただんまりですか」
はあと、聞こえよがしに彼はまた溜息をつく。
ローレンティアは呟いた。
「──『ローラ』よ」
その声は我ながらとてもふてくされていた。まるで小さな子供のような。でも。
「あたしは『姫様』なんかじゃない」
「あなたは姫様ですよ」
穏やかな声音が憎たらしい。こいつだって、昔はそう呼んだりしなかったのに。
「あたしは、ローラだった。一人ぐらいそうやって呼び続けていてくれる昔馴染みがいないと、あたしはあたしがどこの誰であったのか、忘れてしまうわ」
「それがおできになるならいっそ、こう騒ぎを起こして私の心痛の原因を増やされることも減ると思うのですがね」
何という言いぐさだろうか。
「…………」
──だが、ふっと、今度の溜息は半ば笑ったような響きがあった。
「いいでしょう、ローラ。
自分のしでかしたことはわかっていますね?」
ローラはほっとして、知らず入っていた肩の力を抜く。
ホットミルクを啜って返事を探す。ええと。
「将軍、あたしの婚儀のために来てくれてたのよね」
「ええ、隣国の先触れをご案内して来られたんですよ。あなたが嫁ぐときは国境まで護衛軍の隊長を務められます」
「ご苦労さまなことね。あのへんもきな臭いのに」
急速に力を付けた隣国グレンツ。我が国との国境は大部分が山林地帯だが、その土地や資源を巡って十数年前から、小規模かつ非公式な衝突が何度も繰り返されていたという。
「兄様も大変ね。もう少し父上が頑張っておいてくれないと、まだ継承どころじゃないんじゃないかしら」
肩をすくめるローラに青年は苦笑した。
ローラには──、つい先日まで村娘であったはずの彼女だが、それでも城に迎えられてから教えられた様々なことで、それがわかってしまう。
だから、見捨てられない。どんなに向いていない仕事だと感じても、逃げ出せないのだ。
「そのお手伝いをされるのがあなたですよ、ローラ。責任重大ですね」
「あなたもね、マルクス」
教育係の彼は、輿入れにも供として同行することが既に決められていた。
……そう、彼や、後見となった宰相家が付けてくれた、腹心の侍女も共に来てくれる。
「まあ、そうですけど」
「でもあっちは気候も違うから、固有の植物とかもあるそうじゃないの。実はちょっと楽しみでしょ?」
パンをかじりながら見上げると、博物学を趣味とする青年は思わせぶりに腕を組んで、おどけた声色を作ってみせた。
「ええまあ。でもそれに没頭させてもらうためには、安心してさっさと楽隠居できるように、ローラ自身にがんばってもらいませんと」
「……善処するわ」
二人のすぐそばに控えていた侍女が、くすりと笑った。