Witch With Wit-*

恋(iii/終)

 とうもろこし畑で草抜きをしていた彼は、とたたた、と軽い足音を耳にして顔を上げた。
 隣の畑では麦がたわわに実った穂を揺らしている。その手前、畑道を簡素なワンピースを着せられた幼い少女が走りすぎていくところだった。
 太陽は西の空に傾きはじめている。もうそんな頃合いか。日が長いこの時期は、つい農作業に没頭してしまうのだ。
 そろそろ相棒に声を掛けようか、そう思いを巡らせながら一人で走って行く幼女を見送っていると、視線の先で、その姿が大きくつんのめった。
「あ、」
 とっさに手にしていた道具を放り捨て駆け寄る。べしゃ、と地面に倒れ伏した幼女はそのまま動かない。
「大丈夫かな?」
 しゃがんでのぞき込むと、ぴく、と両腕を動き、頭が起こされた。大きな瞳が彼を認め、瞬く。
「──っ」
 幼女は大きく息を吸った。わあん、と泣き出していてもいいところだ。しかしそのまましゃくり上げるように何度か息を吸うと、見開いた目には涙を浮かべることなく、何か言いたげにじっと彼の顔を見つめる。
 そのさまは、まるで遠い記憶の誰かのようだった。
「ああ、お顔とお手々に泥ついちゃったね。けがはしてない?」
 腕を取って、小さな体を立たせてやる。
「泣かないの、えらいぞ」
 服や髪についた葉っぱを払ってやりながら──顔の泥は畑の土をいじっていた手では余計汚れを広げてしまいそうだった──検分すると、左の膝をすりむいていた。じわり、と泥の中に赤いものが広がり掛けている。
「ああ」
 声は背後から振ってきた。彼の相棒が回り込んで同じようにしゃがむ。
「大丈夫、このぐらいならすぐ治せるわ」
 彼女は幼女と目の高さを合わせてにっ、と笑いかけると、その傷に手をかざし、何事かつぶやいた。
 淡く、黄金色の光が彼女の手と幼女の膝を包みこむ。──傷は、跡形もなく消えていた。
 目を丸くする幼女の頭を、彼女がよしよしと撫でて問う。
「いい子ね。おうちはどこ?」

 幼女は近くの村の住民だった。顔を見かけたことがある程度だった家族のところまでおんぶして連れて行くと、娘の口から経緯を聞いた母親に何度も何度も感謝され、お礼にと何かが詰まった麻袋を渡される。
 二人の家まで帰る道すがら、そっとそれを開いて中身をのぞき込んだ彼女が言う。
「ああ、カモミールだわ。あなた昔っから好きだったわよね、これ」
……長年の付き合いだが、こんなところに些細な誤解があった。
「昔っから、ではないけどね」
 苦笑すればきょとんとされた。
「え、そうだっけ?」
 そうなのだ。なんせ、考えてみてほしい。
「あんまり好きじゃなかったから、ああいう知恵を持ってたわけでさ」
「──ああ、」
 合点して彼女はころころと笑った。
「なら、ずっと勘違いしてたわ、あたし。しょっちゅう出しちゃっててごめんなさい」
 隣を歩く彼を流し見ての謝罪。彼も彼女を見返して、首を横に振った。
「いや。君に出してもらうのは何でも好きだから」
「……、
 またそんなこと言う」
 むくれられた。
 せっかく表に出してもよくなったのだし、彼としては口説き文句と言われようが拗ねられようが始終正直な気持ちを口にしていても飽きないくらいなのだが、彼女はそれにまだ慣れてくれないらしい。
 照れ隠しに早足になった、ほんの少し先の背中に言う。
「──でも、そうだな。カモミールを出してくれるたびに、嬉しかった。君だから何でも、っていうのとはまた別で。
 俺にとっても、大事な思い出だから。はじめの頃の」
 黄金色の麦の穂をいっそう輝かせている日の光の中、彼女ははにかむような笑顔を浮かべ、振り返った。
 鈴を振るような、と聞こえる声が楽しげに呼びかけてくる。
「ねえ、早く、帰りましょう。
 今夜は、何にする?」
「そうだな──」
 彼は先週仕込んだ、塩漬けの肉と、この時期の畑から手に入る新鮮な野菜のことを考えた。すっかりこの暮らしが板についている、と、あの頃は想像もしなかった今への感慨が、自然と頬を緩ませる。

 目に映る、かなたの森と山のさらに向こう。
 彼らの出会った小さな国があった。
 夕日は今頃、その地も照らしていることだろう。

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