Witch With Wit-*

恋(ii)

「なにしやがんのよスケベジジイ!」
 その啖呵は、ばちん、と派手な音が響き渡った直後だったこともあって、広間じゅうの貴紳淑女の注目を集めてしまっていた。
 友人がにやにやと、完全に面白がっている様子で目配せを寄越してくる。……お前はいいよな、他人事だから。
 彼女が白々しい口上を述べて退去するまで、広間は水を打ったように静まりかえっていたが、──
「……いやはや、痛快痛快! お国は安泰、心強いことじゃの」
 大きな声で笑い飛ばしたのは、横っ面をひっぱたかれた当のジェルベ将軍ご本人である。続いてわはは、と男性陣の笑い声が起こって、雰囲気は和らぎ、人々はそれぞれ近くの席の相手との会話に戻った。
 はぁ。マルクスは大きく息をついて、立ち上がる。将軍のもとへ歩み寄れば、老人はすぐに気づいて片方の眉を上げた。
「何じゃ、お守りの不行き届きを詫びに来たのか?」
「……そういうわけでは」
 いや、半分くらいはそういうつもりだったのだが、出鼻をくじかれてマルクスは濁した。
 対する老将軍は本人が言っていた通り、あくまで愉快そうな様子である。元々裏表のない人物だ。
「少々、わしらの将を侮ってしもうておったかの」
 武官らしい言い回し。確かに、隣国との外交で自分たちは彼女を大将として押し戴く身である。
「女子供を軽んじられる向きは、将軍の悪い癖でいらっしゃる」
 将軍とは気の置けない間柄であることもあって、マルクスはたしなめ気味に苦笑した。
「はっは、おぬしもだいぶきかん気の強い子供であったな」
……余計なことを思い出された。将軍は濁りのない両眼を面白そうにきらめかせる。
「とすると、先程のあれはさしずめ教師譲りということか?」
 まさか、とマルクスは首を横に振った。
「私があんな品の悪い啖呵、姫君にお教えするわけないでしょう」
 本当に、どこで覚えてきたんだか。

──まったく、何なのだこの生き物は。
 ふたりの立場、距離、未来、それらすべてが完膚なきまでに塗り替えられてしまった今でも、この感慨だけはそのままだった。
 挨拶もそこそこにその場を抜ける。扉をくぐると、それなりに遠くまで見渡せるはずの回廊に出たが、既に彼女の姿はなかった。身軽すぎやしないか。
 小言を言うのが今の自分の務めで、そして、それが彼女のそばにいることを許されているただ一つの理由だ。だから、忠実に、それに従う。
 それなのに、彼女は自分に、昔の名で呼ぶように求める。
 昔のようにしてほしいと思っているのは、おそらく、呼び名だけの話ではないのだ。そしてそれを、マルクスは拒絶しきることができない。
 己が甘いことは知っている。けれども、時間と状況の許す限り、彼女にできるだけいろいろなものを見せたり聞かせたりしてやりたいという考えは、間違っていないと思う。──彼女が赤い髪に連なる子を産む可能性があるのならば、尚更、この国を将来にわたって愛しく思えるような物事を。
 この国を守る。その思いは、もちろん自分にだってある。
 戦う場所が想定と大きく違っても、その目的は揺らがないし、そして、彼女こそが自分の守りたいものの一部──もっとも大きくて、もっとも大事な部分であることは、結局変わらなかった。
「やれやれ、私は非力な文官なんですけどね」
 卑下するのは嫌味でも何でもない。思い上がる自分への戒めと、そして、それでも力を尽くすという自負だ。
「知ってるわよ」
──くだらないことで頼りにされただけでも揺らめいてしまうほのかな歓喜を、苦笑で隠した。

 彼女の母親や祖父には、やはり後ろめたさがある。
 彼らは主君の縁者であると同時に、やはり守るべき民なのだ。その愛娘を道具にしてしまうこと。送り込む先の環境が不穏であるのを打ち消しきれないこと。もちろん、自分の全力を尽くして守り抜くつもりではある。だが。
 彼女が不安を表情に浮かべたとき、自分のそれが、伝染したのかと思った。
 動揺を立て直す前に、母親が彼女の頬を、農作業で荒れた両手で包み込んで、諭してやっていた。
──甘えられた。よかった。
 兄代わりなどと自認していても、本当の意味で力になってやれることはないのかもしれない。
──そんなことを考えていたのに、麻薬にも等しい言葉を投げられる。
「あなたなら、何でもだいたいなんとかしてくれるでしょう?」
 身が持たない。
「尻ぬぐいって言いませんか、それ」
 我ながら、最大限に頑張った憎まれ口だった。

 ようやくお目に掛かった王子当人は、事前に我が国のその筋が集めた情報通りの人物だった。
 血気に逸るところはあるらしいが、女性との浮いた話はほとんど聞かれなかったので、果たして彼女を気に入るかどうかというのがこの駆け引きの最大の懸案事項だったのだが、彼の見せたものは、
──予想外の執着。
 確かに王子の言うとおり、慣習から考えれば、従者という立場であろうと、姫君に男が付き添うのならば妻を伴うほうが自然だ。
 こんなところで余計な目をつけられそうになるのなら、あらかじめ適当な侍女でもつかまえておくべきだっただろうか。
……彼女の、目の前で?
 そんな姿の自分は、想像することすらできなかった。
 彼は自分の鈍さに愕然とした。

 王子の相手をしている間は絡まれて、そうでないときは友人と酒を交わして毎日が過ぎていく。にわかに酒量が増えていることには気づかれているだろう。──彼女には夜の厨房で八つ当たりをしてしまって以来、できるだけ顔を合わせないよう努めていた。
 それでも、その健闘ぶりは伝わってくる。
 彼女はあくまでも出過ぎないように、それでいて存在を軽んじられないように、自国の貴族や先方の使節相手に上手に立ち回っていた。
 婚礼のさまざまな準備にかり出されているのを気づかれないよう影からそっとうかがいながら、その姿を、今までになく美しいと思った。
 隣に立つ王子にも、悔しいなどという気はわいてこなかった。そもそも、引き立て役にすらなっていなかったので。
「あなたは強い」
 それは発見で、喜びで、同時に寂しさだった。
 損ねるわけにはいかなかった。
 それが彼女の精一杯のつくりものだったとしても。

──マルクスは、初めて下命に背く決意をもって、国王と父相手に面会を申し込んだ。

    ‡

──そして情勢は彼の決意や影での努力などあざ笑うかのように流転する。

 隣国がどの時点から侵攻を企図していたのかはわからない。それでも軍制改革を行っていることは把握していたし、警戒もしていたが、さすがに異形までをも持ち出してくるとは誰にも予想ができていなかった。
 仲間と共に状況を模索し、見つからない打開策に知恵を絞っていながら、マルクスの頭の片隅には常に強い憤りが居座っていた。
 こんなことをするつもりなら。
 彼らは、彼女を要求するべきではなかったのだ。
 彼にとって、ただ一人の姫君を。
 生まれ育ったところとはまったく違う環境に置かれ、孤独な戦いを強いられても、不安に支配された時でさえ、泣き顔ひとつ見せない、貴い彼女を。
……なんということだろうか。状況を解明する糸口を見つけてきたのは、まさかの、その彼女だった。

「あなた、仮にも一応姫君なんですし、そういったものには軽々しく近づかないでいただけませんか」
 我々はどれだけ彼女を危険にさらせば気が済むのだ。自分たちと、かの国は。
「みんな忙しそうにしてるじゃない、感謝してほしいぐらいだわ」
 感謝か。してもしきれないほどしている。だが、今のマルクスにはとても、彼女へねぎらいの言葉をかけることはできなかった。
 それは守るべきはずの彼女に守られている、という事実を認めることに他ならず、隣国の王子の婚約者という今となっては無意味でしかなかった重責からやっと解放された彼女の、それ以上の働きを認めることなどできようはずもない。
「……裏を取ります」
 彼女がたどり着いた、一人の老人。
 見つけたこと自体も驚きではあったが、ふと、一つの疑い、いや、仮説が生まれていた。
 常の彼なら、ばかばかしいとさえ思える思いつきだった。それでも、非論理的なこときわまりないが、──彼女が引き当てたのならば、よもや──、という奇妙な直観がその仮説への確信を強めていた。

 マルクスは迅速に手を回すと、人払いさせた王宮内の礼拝堂で、一人つくねんと待っていた。
 王宮付きの神職に依頼して、何十年も昔、神託を求めるときに使っていたという供物と香を用意してもらってある。
 そう長い時間を待たされはしなかった。
 日も落ち、灯されていたろうそくの光が大きく揺らめき、そちらに気を取られた一瞬の隙──
 祭壇の横に、見覚えのある小柄な老人の姿が現れていた。
 傍らの影が形を変えた姿だ、と言われても信じられるかもしれない。そんな前触れのなさだった。
 こうして現れたこと自体が、彼の仮説を肯定している。
「バフォメット様」
 それでもどこかまだ信じられない気分は残されていて、呼びかけることでどうにか、実感をもとうと試みる。
「何故、かような姿であらせられますか」
 この国を守る神の姿は、頭に角、二つの性をそなえ、獣と鳥と人のどれでもなく、どれでもあるものとして伝えられていた。
 しかし目の前に現れた存在は、マルクスの腰ほどの背丈をした、顔も手も皺くちゃのただの人間に見える。まとう衣類もぼろきれのようで、とても特別な何かには見えなかった。
「ほう」
 老人は杖に両手を重ね、体重を預けるようにして上体を乗り出し、眉を上げてマルクスの顔を見分した。
「姫でなく、供の方か。
 そなたは己に、我に応えを求むる資格があると思い上がるか」
 そのひとことで、彼女の話の裏付けは取れてしまった。……しかし、彼としてはそれ以上に、確かめなければならないことがある。
 マルクスはすぅ、と息を細く吸うと、腹を心持ち落とすように力を入れ、答えた。
「私の母は、王族の端くれゆえに」
 それに祭りの時、マルクスは彼女と一緒にこの老人の姿をした神を不心得者の乱暴から救っていたはずだ。
 資格はある。その思いを込め、強く見据えた視線の先で神は哂った。
「よかろう」

 情報を手にしたマルクスが、まずそれを携えて面談を持たねばならないのは国王だった。その晩が明けた翌朝には、繋ぎとしての父のみを伴い、謁見の場を整えてもらう段取りはつけることができた。
 それはマルクスがかつて公爵家の友人から聞かされた赤い髪の秘密にまつわる話でもあり、そして、──マルクスがすべて語り終えると、彼を含めた三人は、うなったきり沈黙に沈んでしまった。
 現状打開の方法が、あるようで、ない。
 箱を開ければ守護神の力は一時的に復活するかもしれない。しかし、王や王太子が確実に命を落とすことと天秤に掛けられるような効果ではない。
 幼い王子や王女たちにしたってそうだ。彼らを犠牲に捧げることで士気が上がるような古代ではもうないのだ。……その上、異形をもし葬り去れたとしても、その背後には無傷の人馬と、異形を支配下に収める能力を持った錬金術師とやらが控えている。
……もし、その役目を負わせるとすれば。もっと血の薄い者。そして要職に就いておらず、指揮系統や国の統治に影響を及ぼさない人間。
 王と父に報告をする前に、マルクスはその結論や、現時点でそれに該当する人物を導き出していた。
 自分が言い出すべきだろうか、と考える。軽々しく口に出せる提案ではなかったが、──自分に死ねと、敬愛する父や王の口から命じさせたくはなかった。
 ゆるく口を開いた瞬間、それをさえぎるように王が彼の名を呼んだ。
「マルクス。この件、余にしばし預けてはくれぬか」
「陛下」
「一度、皆の詰め所に戻れ。知恵者のそなたがおらぬでは、皆も不安でいることだろう」
……察されていた。王の言葉からそれがわかった。
 彼は下唇を噛むと、無言のまま一礼し、王の私室を退去した。

 地図や次々届く情報の書き付けを張り出して整理している軍議の間に戻ろうとすると、少年のような年の下級官が真っ赤な顔で駆けてくるのに出会った。
「マルクス様!」
 叫ぶように呼んで、そのままへなへなとくずれそうになるのを受け止めて支えてやる。
「どうした」
 確か、従者と離して閉じ込めた王子の身の回りの世話を担当している者ではなかったか。
「姫……ローレンティア姫様が!!」

 ほんとうに、なんなんだ、あの生き物は。
 もはや何度目になるかわからない決まり文句が胸をぐるぐると回っていた。
 頼むからおとなしくしていてくれ。いや、実際に頼んでも、おとなしくしていないから彼女なのだろう。
 だがその彼女が、自分を当てにしてくれた。
──非力な文官でございます。
 下級官の口から伝え聞いた彼女のその言い回しだけで、思惑が解った。自分が何を求められているのかが。
 思えば、気まずいだろうに、神との邂逅を報告する相手に選ばれたのも、俺だった。
 王子の部屋の開け放された扉をくぐれば、王子に戒められている彼女の姿がある。一瞬ではらわたが煮えくりかえった。
 誰も彼女を好きにすることは許されない。
 それとは反対に、奇妙な落ち着きと自信もあった。
 彼女と意を通じていれば、何でもできる。

……王子に加えたとどめには、かなりの私怨も混じっていた。

 王子の身柄の後始末をするのも、もちろんマルクスである。自分で昏倒させておいてその介抱を命じるというのも、なんともしょうもない気分ではあったが。
 姫君は無事だという報告を各所に飛ばすなどして、人心地つくため長椅子に沈み込むと、それまで、邪魔しないようにか気が引けていたのか遠くに控えていた彼女が、そばに立っていた。
「何が『大丈夫』ですか」
 直前まで共にいたという侍女からの恨み言を、そのままぶつける。
「……大丈夫にしてくれたじゃない、あなたが」
──ひどい返事もあったものだ。
 気がつけばぶつけるような音を立てて彼女から受け取った杯を傍らの卓に置き、血が上る頭をかき回していた。
 恨み言が漏れる。
 彼女が同じ長椅子に腰を下ろし、座面が少し沈んだ。──耳に届く、つぶやくような声。
「あたしが主君の姫だから守ってくれてるわけじゃ、なかったのよね」

 それは不思議な瞬間だった。

 考えてみれば、彼女の口からそれについて触れられるのは初めてだった。
 言葉にして投げた自分の気持ちは、このときまで宙ぶらりんだったのだと、今更ながらに気がついた。
「聞かないと判らないんですか?」
 何か考えるより前に、自分に対する呆れ半分で、そう応えていた。
「……わかっていても、聞きたいの」
 ふ、と苦笑が漏れた。──やっと。
 やっと、伝わった。本当はこんな形ではなく、こんな状況ででもなく、ただ自分と彼女のためだけに伝えられたらよかった想いだった。
 心のどこかを緊張させ続けていた力が抜けていくのと同じくらい、熱いものが胸の奥からわき上がってうずまいている気がした。
 少しでもよい言葉を、と探す。いつも回るはずの自分の頭なのに、やはりこういうときは鈍いらしい。
「でもあたし、」
 彼女は待たなかった。
「守られるだけでいるほどか弱い姫君じゃなくってよ」
 ああ、
「知ってます」
 知っている。あなたは強い。
 俺がいなくても、どんな形になったとしても、きっと彼女らしく満たされた生を全うするだろう。
 だったら、自分にできる一番のことは。
 こんなところで理不尽に、その道が絶たれないようにすることだった。

「俺からの要求はひとつだけだ。
 彼女にこれ以上何も知らせず、平穏な人生に戻れるようにしてくれ」
 幸せを、などという陳腐な言い回しは使わなかった。
 彼女ならば、それを自分の力でつかみ取るだろうから。
……もしかしたら、自分以外の男と。
 そう思い浮かんで、とうの昔に手放したはずの望みが一瞬だけうずいたが、彼はそれを、お得意の微笑で踏み潰した。

    ‡

──あたし、守られるだけじゃないって、言ったのに。
──その通りだ。

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