恋(i)
──なんだこの生き物は、というのが素直な第一印象だった。
良家の子息として、当然に付けられた家庭教師の語ることが、単なる数字や記号、概念などではなく、自分の毎日のこもごもと地続きであるらしいと気づき始めた頃。
領地を見回る父が、珍しく兄ではなく自分を供にした。
そこは馬車に小一時間ほど揺られると到着する、さほど大きくもない荘園の一つで。
我が家の領地に、国王陛下の子を産んだ女性がいる、という話は聞いたことがあった。彼らが住む村だという。
初めて見る農村の家々は、思ったよりもしっかりした造りで一軒一軒が広かった。都会と田舎の土地の使い方の違いだとは、後に知った。
中でもひときわ立派な石造りの屋敷に自分たち親子は迎えられ、がっしりした体つきの老人が相好を崩して挨拶をする。
「やあやあ、これは小さい方の坊ちゃまでいらっしゃいますか。お母上によく似ていらっしゃる」
暖かな居間兼客間に通されて、ソファに腰を落ち着けるとお茶を運んできた農婦が、どうやら国王の子を産んだ女性のようだった。
拍子抜けする。質素でのどかな農村を目の当たりにしていても、頭のどこかで、日頃『王侯貴族の相手』として見慣れているような、ドレスで着飾った女性が出てくるような気がしていたのだ。
ただ、身なりこそ客の前に出て行くことのない洗濯女同然ではあったが、父と言葉を交わしている様子は堂々として、長年使えた譜代の家人のように打ち解けたもので、父も当然のようにそれを受け容れている。そこを見ればなるほどこの人は、本来であれば貴族に並ぶ格を与えられていてもいい立場なのだと得心がいった。
「ローラ様は、お健やかで?」
父が尋ねた。おおかたそれが陛下の子の名なのだろう。
「それが今日も、父の書庫にこもりきりですのよ、こんないい陽気ですのに」
女性は困ったように笑った。父はああ、と合点している。
「呼びにやらせますわ」
「なに、それには及ばない」
そう言って父は、マルクスを手招きした。
「息子を行かせよう」
自分が、何を言いつけられるのだろうか?
「今日この子を伴ったのは、例の書庫を一度見せておきたいと思ったからでね」
それなら都合がいい。と大人たちはマルクスを置いてけぼりにして笑い合った。
母屋の裏には、当主である老人が建てた書庫があった。いやはやお恥ずかしい田舎者の道楽で、と老人は謙遜してみせたが、高いところに小さな窓を作っただけのその建物は、マルクスの目から見ても立派なものだった。
中に入れば紙特有のにおいで空気が満たされている。きちんと床が上げてあって、木製の本棚が整然と立ち並んでいた。
背表紙の文字をたどると、まだ自分が習っていない言語のものさえあった。いよいよ道楽とはほど多い。
さすがに書物のすべてが珍しいものばかりというわけではなさそうだが……、
「『諸国論』、『二一〇の詩篇』、『やどりぎ』、『黒杖記』……すごいな、先生が読んでおけと言っていたものは全部ある」
マルクスはそれらの文字を夢中でなぞっていた。伝承や伝説にまつわる本が詰まった棚を回り込むと、
「っ!」
驚きに一瞬両肩がびくついてしまい、すぐにそれを恥じた。ここに遣わされた目的を半ば忘れていたのだ。
高い窓から控えめに入る光。きらきらと輝くほこりが舞う中に──、自分より二つ、三つほど年下に見える少女が立っていた。
先程の独り言を聞かれたろうか。そんな思考が一瞬かすめて、すぐに消えた。薄暗い中でもはっとさせられるまなざしの強さに囚われたからだ。
明るい色の髪は肩まですとんと落ちて、その先だけくるくると巻かれていた。ふんわりとした袖の上着にスカート、前掛けは質素な生地でできている。
書庫の中にいるにもかかわらず、少女はそれらを開くでもなく、両足を肩の幅に開いて、床を踏みしめていた。
両手はつまらなさそうに、ふてくされたように、前掛けの両端を引っ張っている。
「──なんだ、何か読んでたわけじゃないのか」
こぼれた言葉は我ながらぞんざいだった。主君の娘に乱暴な物言いだったか、と悔やむ。
「この棚のものは、全部読んじゃったわ」
少女があごで示した本棚をマルクスは確かめる。大人向けの本ばかり──百冊ほどはあるのではないか?
「すごいな、これだけの本を?」
驚きや疑問もあったが、やや気を遣って返した言葉にはそっけない声音。
「でも、書いてあるのは本当のことじゃないわ」
「……へぇ。本に書いてあることが全部、嘘っぱちだって言うのかい?」
その時、何かを深く考えて発した言葉ではなかった。流れでというか、一種の買い言葉、あるいは、この年で既にただ者らしからぬ雰囲気を醸し始めている少女の知らないことを、己は知っているぞというような、優越感のなせるわざ。
「……全部ではない、……かも」
視線をマルクスと書棚の間にさまよわせた彼女はぽつりと言った。いきおい、にやつく。
「じゃあ、どれが嘘で、どれが本当?」
からかうような響きを感じ取られたか、少女はむう、とうなって腕を組んだ。
「……どれだって、いいじゃない」
「へぇ?」
だって、と続ける。
「どれがほんとうのことだったって、あたしには関係ない」
「そうかな」
マルクスは数歩歩み寄ると、少女のすぐ近くの棚から、赤くて堅い背表紙の一冊を引っこ抜いた。それにはこの国の始まりの話が書かれている。
「たとえば、そうだな。
この姫君が、きみととても深く関わっている、と言ったら?」
「……え?」
その本の装丁が赤かったのは、始祖の姫君の赤い髪を意識してのものだったかもしれない。
「彼女は実在してた、手回り品も残ってる。お言葉や性格なんかは物語そのままではないかもしれないけど」
少女は小さく口を開け、息を吸ってマルクスの顔をまじまじと見つめてきた。──手応え。
「どうしてそんなこと、知ってるの」
「都の人間なら、誰でも知ってる」
軽く言ってしまってから、また少しの反省。
「もちろん、いつでもそういうのを見られるわけじゃないけど」
「どういうこと?」
付け加えたフォローには勢いのいい食いつきがあった。
彼女が自分を見上げる視線には、自分の知りたいことを全部引き出すまでは放さないぞという意志を感じた。
面倒なことにしてしまっただろうか、と思ったが、そうだったとしても、どう見ても手遅れだった。
それが彼女との出会いで、そして、彼自身の運命との出会いでもあった。
‡
帰りの馬車の中で、父に問われた。
「どうだった、お前」
「……書庫を見せておきたいなんて、初耳でした」
ぼそぼそと言ったら、軽く笑われる。
「ははは。それもまた、口実の一つだしな」
では、あの母子に引き合わせようというのが、父の魂胆だったのだろうか?
しばらく考えて、口を開く。
「……母君が平民だから、あのような、型にはまらないお方に育たれるのですか?」
我ながらなんとも回りくどい言い回しである。
「そう思ったのか?」
「いえ、わかりませんが」
ただ確かなのは、今までの暮らしにはあんな少女はいなかった。
どことなくもやもやしているのを見て取られたか、父はにやりと笑って話を打ち切った。
「そうか。お前にはまだ陛下の好みは早かったか」
……自室に戻ってからも、そのもやもやはわだかまったままだった。
どうして、いったい何が自分を苛立たせているのか。
──分析や思索は得意中の得意だった。
傾いた日が差し込む部屋で、勉強机と揃いの椅子の上。腰を据えて考えてみる。少女の態度、だろうか。
年上や身分が上のものにも物怖じしない。聞いた話をはいそうですかと鵜呑みにせず、納得するまで食い下がる。
子供の力には不可能なことだって多いだろうに、どことなく自信にあふれた振る舞い。貪欲に書物から知識を吸収していくところ。
──なんだ、
同族嫌悪か。
大人が使うような言葉が浮かんできて、マルクスは一人、くすりと笑った。
それで一年の間は、なんとなく忘れていられた。
「父上。例の村に行かれるんですか?」
朝食後、外出のための服に着替えようとしている父に、彼はそう声を掛けた。
「ああ、お前も行くか?」
誘われてしばし考える。去年、初めての訪問からすぐであったら、きっと断っていただろうけれど。
「そうですね、結局うわさの書庫もたいして探検できてませんでしたし」
父はその返答を大いに面白がった。
一年の歳月ぶん、互いに大人になったのだろうか。今度はあの少女にも、妙な反感を抱えることなく接することができた。
暖炉の部屋で、子供たちだけおやつを与えられる。
話題の中心は彼女が最近読んだという詩集のことだった。マルクスも多少意見がある分野だ。
「もっと飲む?」
ジンジャークッキーと共に出されたカモミールティーをしきりに勧められ、ぴんときた。
「自分では飲まないの?」
うっ、と声を飲み込んだ少女は目を泳がせる。
「……苦手だから、俺に勧めてたのか」
推測を意地悪くも言葉にして、にやりと笑った。少女は気まずそうに首をすくめる。
「だって、若様が全部飲んじゃうなら、あたしが好き嫌いしたことにはならないでしょ?」
やっぱり。
「──牛を飼っているみたいだけど、牛乳はある?」
え、と少女は瞬いた。
「これはばあやから聞いたんだけどね。正直に言ったから教えてあげる」
その象牙色の液体を彼の言うまま、おそるおそる一口試した少女は、信じられないという顔でマルクスを見つめてきた。
「すごい。なにこれ」
「おいしい?」
こくり、とうなずいてさらに口をつける。
なかなか愉快な気分だった。
そうやってすっかり、少女にはなつかれたと言ってもよい。マルクスとしても家には兄一人、近しい縁者も年上ばかりだったので、妹のような存在ができたようで新鮮な心持ちを味わった。……なんだこの生き物は、という気分はいつまでもやや残ったが。
それからは父に同行するだけでなく、時折ちょっとした用事を言いつかり、お遣いがてら書庫で過ごしに行くこともあった。──彼女の相手ばかりしていたわけでもない。
こちらもすっかり打ち解けた彼女の祖父に頼まれ、稀覯本の写しを自ら作って届けたこともある。彼としてもそれは、将来携わるであろう貴族の仕事の練習にもなることだった。
「こうして若君が遊びに来て、いろいろ聞かせてくれるのもありがたいことでしてな」
農作業の合間のお茶の時間、村長でもある彼はしみじみとそう言った。
「わしらは生まれた地を離れられませんからなあ。いくら遠い場所の文物を学んだとて、一生目にする機会などございませなんだ」
……そうなのか。
官吏であれば、生まれた土地とは違う場所に赴任することもあろうが、農民にはそういったことはないだろう。
少年の心にはこうやって、彼が守り、治めるべき民の姿が焼き付けられていった。
そして、少女の行く末も、あくまでも平民だった。王宮から支払われる化粧料もおそらく一代限りのものだろう。
彼女の才知をもったいなく思い、哀れみを抱いたが、しかし、自分の将来だってまだまだ漠然としていることに気づく。
「お前とか兄上はいいよなあ。長男だから家を継いで、って決まってるんだし」
年の近い友人にふとそうもらすと、肘で小突かれた。
「選択肢があるってことだろうが。俺に言わせりゃそっちも充分羨ましいよ、なんせこっちは生まれたときから嫁まで決められてるんだからな」
……そうだった。
「……それはそれで、面倒がなくていい気もするが」
正直な感想に、友人は肩をすくめる。公爵家の跡継ぎである彼は、あの少女の腹違いの姉に当たる王女と婚姻することが決まっている。
「将来の立場のために女の機嫌を取ったり、いい条件で結婚できるよう全方位に気を遣うのも面倒そうなんだけどな」
「お前ならそつなくやれそうだけどな」
……喜んでいいのか、微妙なところの評価をいただいてしまった。
そもそも、どうやって数多いる女の中から自分の相手を選ぶことなどできるのだろうか。
この国では王だけが重婚を許されている。それ以外にも愛人を囲うなどしている貴族はいるが、ふらっと立ち寄った先でその後滅多に会えない子供ができるというのも、マルクスとしてはなんとなく避けたい話だ。
「ああ、それが本音か」
そう言ったら訳知り顔でうなずかれた。まったく、この友人は。
彼や兄、そして将来仕えるであろう王族のことは、嫌いではなかった。幸いなことだと思う。もっとも、王族についてはこれからどれだけ増えるのか定かではないのだったが。
「会えないって言えば、な。……俺の婚約者に、一度会ってみてくれないか?」
「え? 第一王女殿下にか?」
「ああ。お前から『あの子』の話を聞きたいらしい」
唐突な申し出ではあったが、そう聞けば意外なこともない。
そして友人から引き合わされた第一王女とは、結果、意気投合した。
「物腰はおっとりしてるが、あれ、お前と似た者同士じゃないか。選択肢がないとか言ってたけどな、心配して損した」
面会の後にそう感想を告げると、友人は一瞬ぽかんとして、そしてこらえきれないようにくっくっと肩をふるわせて笑った。
「……何だよ?」
「……いや、すまん、自分のことは見えないもんだな、と思ってな、お互いに」
いずれにせよそういうわけで、村に詣でる口実は一つ増えたのだった。
彼には、若者らしい遊びに誘われることもある。それが踊り子や娼婦を呼んでのものだったことすらあった。
お前、姫がいるだろ、などという野暮は言わなかったが、なかなかさっさと場慣れするというわけにもいかない。
「大丈夫、この店の女なら誰だって、俺たちみたいな坊ちゃんの相手はお手のものさ」
酌をする女を指名するよう言われて、躊躇っていたらそんな助言をいただいた。
「……そういうのは、失礼なんじゃないのか? ……その、誰でもみたいな選び方は」
「……お前……、時々アレだよな」
自分はさっさと決めてしまった友人は、隣に座らせた女に注がれた酒をあおる。
「何だよ」
「俺はむしろ好きだがな、お前のそういうところ。女の種類によっちゃ失礼だから覚えとけ」
その光景からさめやらぬまま、用があって村に行けば、畑道から歩いてきたのはあの彼女だった。
ここ数年で急に伸びた手足。スカートの裾を持ち上げて、たわませた布によく実ったとうもろこしをいくつも突っ込んで抱えているので、ちらちらとしなやかな膝が見えた。
「……すねを見せるんじゃない」
「なんでよ?」
背丈が伸びると同時に、活発に外に出るようになった彼女は、マルクスがうっかり出してしまった苦言に疑問をぶつける。
「……謁見もしたじゃないか、今年」
そう言ってやっても、飲み込めないでいるようだ。マルクスはこれまでも幾度となく浮かんだ疑問のような慨嘆のような感想を抱く。──なんだこの生き物は。
無言でとうもろこしを半分持ってやり、彼女が腕で抱えられるようにしてやる。長の家に向かいながら、ふと聞いてみた。
「お前、結婚とかはどうするんだ?」
「あー……」
間の抜けた声を長く上げた後、彼女は言った。
「そのうち頃合いになったら、一番出来のいい男の子が婿に来て、次の村長ってことになるんじゃないかしら」
まるで、他人事のように。
「いいのかお前、それで」
「え? なにが?」
──そういうものなのか。そういうものなのだろう。
ただそれが、自分とは関わりない話であることだけは、痛いほど解っていた。──否。そんなことはないはずだ。そんなことは、ないのだ。
マルクスは生のままのとうもろこしの端を、勢いに任せてかじった。青臭さの中に、確かに甘みがした。
「え、ねえ、何やってるの? すぐに茹でてあげられるのに」
彼女はおかしそうに笑う。……誰にも告げはしなかったが、確かな目標が胸の中に生まれていた。
望みとも言える、それ。
‡
「ありがとう。次はお前の番だな」
数年後、定められたとおりに王女を妻にめとった友人は、祝宴の席で父共々祝いを告げに行ったマルクスにそう言った。
既に兄も身を固めている。言われなくても、それは事実だった。
それと前後して、父からはさりげなく縁談が来ているとして、マルクス自身の意向を確認されていた。断れば、そうかと言われてその話は終いになる。理由すら聞かれなかったが、意志を聞かれること自体が断る自由があるということだと思っていた。
自分の縁組みがまだ決められていないのは、家にとっても駒になりうるからだと知ってはいた。その一方でつぶしが利く人間にはなっておこうと、自ら教師を選んで外国語を磨き、伝手をたどって武官に混じって鍛錬を重ねていた。その中で異国の大使と同席する機会があったり、歴戦の将軍に目を掛けられたりなど、恵まれた出会いもあった。
何度目かの縁談の時、いつものように断ると、父はふむ、とうなずき、そしてそのまましばらく間があった。
なんとなく、切り出すなら今だという気がした。
「巡察使の席に、空きは出ませんか」
国中を回る官職である。本来であればマルクスよりも少し低い身分の者の仕事だが、業績を上げれば高官に取り立てられる道もあった。
マルクスの目指すものは、さらにその先に、──いや、まだ、それは夢物語だ。
「ほう」
父は目を細めた。
「熱心に体を鍛えていると聞いて、武官にでもなるつもりかと思っていたんだがな、それでか」
悪くない。うなずかれてほっとした。だがな。続けられる言葉。
「国境を越えても、土地は続いている。興味はないか?」
どういうことだろうか?
「──妻をめとって、大使になれとおっしゃいますか?」
「まあ、……似たようなものかもしれないな」
そうして、非日常の少女は、マルクスの日常に移り住んできたのだ。
王直々に、教育係を命じられる。
顔見知りだということだけが理由ではないと、恐れ多くもお言葉までいただいた。
認められている、と身が引き締まる思いも確かにあった。
しかし、──遅かった。
こんな形で、縮まってほしくはない距離だった。
見透かされて、処刑場に引き出されている気さえした。
「マルクス、暮らしてるとこは近くなったのに、口うるさくっていつもしかめっ面で、むしろ遠ざかったみたい」
「さようですか、結構」
あしらえば、彼女はいーっと歯をむき出した。昔とは比較にならない質のよいなめらかなドレスが実に似合わない仕草である。
落ち込まないと言えば嘘になる。自分にも、彼女の素振りにも。しかし、親しげに言葉を交わす厩番にもこんな顔はしないであろうことを知っている内心は、どうしてもほろほろとほころんでしまう。度しがたい。
兄代わりだからだ、と言い聞かせて、それを奥深くにしまい込む。実の兄である王太子を差し置いて、不敬な考えだったかもしれないが。
「母君やお祖父様の代わりですからね、私は。立派な姫君となってお役目を果たされるのを、見届けさせていただくまでです」
お役目。
平然と口にできる自分を、ぶん殴りたい。
……友人には、彼女が城に迎えられた最初の日に声を掛けられた。
「自分が身を固めたってわけでもないのに、最近例の店の女たちと連絡を交わしてないそうじゃないか」
「……いろいろ、教えてもらってただけだ」
「賢明だな」
青年貴族たちのためのサロンで、琥珀色の酒を丸いグラスに満たし、それをマルクスの目の前に置いて友人は告げた。
「あの店の女は、特にそういうのに詳しい」
「──お前」
やっぱり、そうなのか?
「俺や、お前の兄さんには、できない立ち回りもある」
そう言うと彼は懐からベルベットの小箱を取り出した。開くと、精緻な細工をされた耳飾りが鎮座している。
「……これは?」
「これから何人かに会わせる。一度で覚えろ。
そいつらがこれをつけている時と、危急の時。その者の言は陛下の言と思え」
──そうか。俺は隣国にやられるんだな。
「それから、この国最大の秘密を教える。王だけが重婚を許されている理由だ」
王家に残された神との約定。その証の赤い髪を備えた者だけが、この国をほしいままにできるだけの力を与えられている。
その秘密を、彼は初めて知った。
「俺と妻の子も、赤い髪だった場合は王家に戻されることになっている」
「……何故、俺にそれを?」
「──隣国に嫁いだ姫の子が赤い髪だったら。万難排して連れ帰れ。あらゆる手を使って、だ」
ずいぶん先のことに思えた、彼女の輿入れの日はどんどん迫ってくる。
「また外国語につまずいておいでですか」
「──だって! 読み書きはいいのよ、でも喋り方が。村じゃそんなの勉強できっこなかったんだもの」
はあ、とくせになってしまったため息をつく振り。このときも一度それを挟んでから、彼は告げた。
「私が控えていれば可能な限りお助けできますが、常にそういう状況だとは限りませんからね」
「……え?
ねえ、じゃあ、マルクス……」
「ええ」
なるべく世間話を装って、伝える。
「私もお供を申しつかりました」
あからさまにほっとされる。ころころ変わる表情。
──あなたと他の男との子を見定めるのが、俺の役目なのだ。